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2008-06-13 16:10
家の宗旨が臨済宗で自我ゲをあげることが気になっているという方から質問がありましたのでお答えします。
参考までに。 法華経については、先に書いたように、宗教団体や、家の宗旨とは別のものです。同志が集まれば、自分達の主義主張をする為に、他と摩擦がおきます。当時(鎌倉時代)の日本国をを救う為には、これしかないと主張して、それを激しくやったのが日蓮さんです。元々は比叡山で学んでいた人ですが、比叡山はご存知だと思いますが、正式には、天台法華宗と言い、法華経を拠り所とする宗教団体です。臨済宗の開祖の栄西もこの比叡山で天台法華思想を学び「摩訶止観」という天台宗に伝わる禅を極め当時の天台宗の疲弊を復興する為に南宋に留学し当時中国で盛んであった臨在禅を日本に輸入し日本臨済宗を開きました。それゆえ彼は自我ゲを必死で唱えた一人です。根は法華の行者であり菩薩の道を歩まれたかたです。 法華経には、仏は歴史上の釈尊が亡くなられてからも、常に一人一人の心の中で、慈悲の心として、生き続け、苦しみからの救いを求めるものの前には必ず救いの手を差し伸べられる。そして、悟りを求めるものは、己の慈悲の心を成長させ、生きとし生けるものの苦しみを抜くという実践をすることにより、自分自身も仏になれるという、永遠の仏の命の循環が説かれているのです。それを実践する人を菩薩といいます。この自我ゲはまさにこのことが書かれた法華経のエッセンスのゲ文です。そしてこの経には、このお経が成立して依頼の、数え切れない人々や、人々の救済に一生を費やした人の、仏に対する信頼、信仰が声にならない形で封印されているのです。こちらが真心を込め真摯に救いを求めれば必ず応えてくれるものです。そうゆうお経です。念を残して亡くなった方たちにとっての救いの法になっています。 なぜ人の心の中には仏が住んでいるはずなのに、こんな悲しい事件が繰り返し起きるのか? それは、心の底にある慈悲の心(仏心)が曇っているからです。業という重石が乗っかってしまいがんじがらみに囲われ、その上、よりその心を閉じ込めるような、重いネバネバした泥をかぶせている。煩悩と呼ばれるものですね。他人の痛みを知ろうとするよりも、自分だけの苦しみ、怒り、欲望がかなえられない不満により、それに執着し、がんじがらめになってしまっている。非常識を個性とした教育にしても、欲望を助長し金儲けの道具にしたマスコミにしても、物事を利害関係と損得勘定で割り切るような世界にしてしまったのは、我々の親達とそれに乗った個々の責任です。結局、悲劇と言う形で、その一部を露骨に見せ付けられている。「経済」だけを中心に据えて成長してきた悲劇です。世界中で起こっていることです。 「一隅を照らす」と最澄さんはおっしゃられました。、日々の生活の中で、身近な人のために何ができるのかを問い続け、実践することがこの言葉の意味だと思います。曇っている仏の心を磨くのも人生では大切なことだと思います。今日、この一瞬の出会いを大切にし、もし身近に人や生き物がいるのなら、優しい言葉をかけてください、言葉をかけるのがチョットニガテなら優しい心でその人を見つめてください。あなたの目はその瞬間観音さんの慈眼になっています。 |
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| 運勢鑑定 洗心庵 |
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